以前、テレビで日本にいる外国人がウンザリする質問というのをやってた。例えば、
・梅干し食べられますか?
・納豆は大丈夫ですか?
・日本語お上手ですね。
・箸は使えますか?
といったこと。
これらはたいていの日本人が聞いてくるのでいい加減ウンザリしてしまうのだそうだ。
文化の最近のブログ記事
先日、ここで紹介した『焼肉の誕生』とタイトルが似ているが、こちらは「とんかつの誕生」を終着点とし、明治維新以降の西洋料理受容からその日本的展開を経て、和洋折衷の「洋食」の到達点「とんかつ」へと結実していくまでの歴史を紐解いている。つまりサブタイトルの「明治洋食事始め」こそが本書の内容を指す。
本書で追われる「とんかつ誕生」までの過程を、著者がきれいにまとめてくれている。
「……結論を先取りしていうと、そこには次のような「ドラマ」があったのである。(1)牛肉から鶏肉、そして豚肉への変遷、(2)薄い肉から厚い肉への変遷、(3)ヨーロッパ式のサラサラした細かいパン粉から、日本式の大粒のパン粉への変遷、(4)炒め焼きからディープ・フライへの変遷、(5)さらには、西洋野菜の生キャベツの千切りを添えて、(6)予め包丁を入れて皿に盛り、(7)日本式の独特なウスターソースをたっぷりかけて、(8)ナイフやフォークではなく箸を使って、(9)味噌汁(豚汁・しじみ汁)をすすりながら、(10)米飯で楽しむ和食として完成する ── これだけの食の変遷に、六〇年の歳月が費やされたのである。外来の食べ物を、このような執念で吸収・同化していった食の文化は、他国ではあまり例がないであろう。」
これらの段階を事例を交えて追っていくのが本書だ。この文章でこの本の要約は完璧だといえる。
ただ、『焼肉の文化史』『焼肉の誕生
』というハードめの歴史考証的作品とほぼ同時に読んだためか、残念に思う箇所もいくつか見受けられた。
(とはいえ多くの知識がちりばめられており、いろいろな知識と示唆を得ることができた)
例えば『焼肉の文化史』『焼肉の誕生
』で多くの紙幅を割いている「日本にも連綿と肉食の習慣があった」という考証を読んでしまうと、当時の庶民の肉食に対する感覚について、もう少し丁寧な取り組みがあってもよかったのではないかとも思う。
逆に、『焼肉の文化史』『焼肉の誕生
』の方が、メジャーな感覚としての庶民の肉食への忌避感をこの本ほどは伝えていないなあという気もするのだけども。
1871(明治4)年、明治天皇が肉食をし、天武天皇の殺生禁断から1200年にわたる肉食禁止を解禁した……これはたしかに大きな「事件」だっただろう。
そしてこの事件の記述の後、天武帝以降いくつも出された禁令に言及する。
しかし単純に考えて、禁令がたくさん出されるということはそれを破る人がたくさんいたというわけだから、ちゃんとした史料の提示もなしに
「しかし、家畜を食べるのは騎馬民族の習慣で、古代からの日本にはなく、渡来人がもたらしたものであろう。したがって、当時の日本人にとって、肉食禁止はあまり苦痛にならない禁令であったと思われる」
と書かれても、ちょっと納得はできない。
大宝律令のような体制でさえその基盤の公地公民制度はたった40年であっさりと崩壊したわけで、天武天皇の殺生禁断が1200年継続したとか、ちょっと現実的に「ない」話だろう。
もちろん明治天皇の肉食というデモンストレーションの説明としてそういう建前が言及されたことは納得いくとしても、考証側がそういう制度的な話だけを持ち出しても仕方がないと思う。
結局、この「制度」を強調するから、実際に江戸時代に「薬食い」などと言ってそれなりに盛んだった獣肉食とのきれいな整合性を保てなくなる。
それは恐らく、
「……このように、鳥獣肉を抵抗なく食べる人からまったく食べない人までおり、また鳥獣の種類によってもその対応は人により異なった。日本には、肉に対するタブー感を異にするさまざまな人々が暮らしてきたのである」(『焼肉の文化史』)
という視点が希薄だからだろう。そしてこの本のこういう視点の欠落が、読み進む中で感じる「引っかかり」の1つの原因になっているのだと思う。
いずれにせよ、明治天皇による肉食のデモンストレーションは象徴的で、新政府の目的は庶民への肉食の普及にあった。その理由は主に「滋養」。彼我の体格差、文化の格差について、肉食(あるいは西洋料理)の普及によって日本人の劣等感を払拭しようとしたわけだ。
この話はなかなか興味深かった。というのも、これも『焼肉の文化史』で出てくる話になるが、政府は大正あたりから戦中まで、さまざまな形で内臓食の普及活動を行っている。まずは栄養、経済という理由、そして単純に食糧不足からのものだった。
明治時代には肉食、大正・昭和時代には内臓食を政府が主導した……ということはつまり、当初は民間(の多数派)ではそれが思うように進んでいかなかったということだろう。だから政府がわざわざキャンペーンを張らなくてはいけなかった。
「とんかつの誕生」「焼肉の誕生」はつまり、それらの前提となる文化が民間に根づく過程なのだ。
ついでにもう1つ、『焼肉の文化史』の記述との絡みで興味深かったのは、肉の偽装……と現代風に言っては問題なのかもしれないが、ある肉を別の肉であるとして売るという話。
書かれているエピソードを古いものから3つ並べてみる。
「牛肉の需要が増えてくると、とんでもない事件が起きる。一八九〇年(明治二三)に、東京で、馬肉を牛肉に混ぜて売る業者が摘発される。警視庁は、市内の肉屋の検査にのり出す。このような悪徳業者は後を断たず、安い牛鍋には馬肉が混入された。そこで、馬肉と牛肉を、簡単に見分ける知恵者が出てくる。皿に盛られた肉を壁にぶっつけて、付着しやすいのが馬肉だという。この噂話に、牛鍋屋で試す若者が続出する」(『とんかつの誕生』) この話は夏目漱石『三四郎』にも登場する。
「……焼き鳥には鶏のモツが使われたが、1897年の読売新聞によると、「浅草あたりでは犬の肉を利用して鳥と称する」焼き鳥が、車夫や馬方などの下層の人々を相手に売られたとある(弘文堂『大衆文化事典』1991年)。焼き鳥の素材は、さらに変化し、牛豚のモツが使われるようになる。そうなると、この料理の愛好者は都市の庶民層にまで広がり、酒のおいしいつまみとして定着する」(『焼肉の文化史』)
「一九三二年(昭和七)一一月号に、添田さつきの「カツは上野か浅草か」という記事がある。誕生したばかりのとんかつへの庶民の反応、昭和初期のとんかつ屋の様子、主人と客のやりとりなどが、長文でおもしろおかしくつづられている。
「とんかつ時代 ── とんかつをビフカツに仕立てたり、兎をもちひてチキンカツで候と誤魔化さなければ通らぬ時代もあった。実質がとんであり兎であつても、ビーフでありチキンである名の下に安心して食ってゐたのだから、まことに以てお目出たい話といはねはならぬ。ところが、今度はとんかつ時代になると、猫も杓子もとんかつ、とんかつ。とんかつでなければ夜も日も明けぬ。 ── といふこととなって来るからおそろしい。まア、考へやうに依ては、とんかつがとんかつで通る時代が来たのだから、公明正大、青天白日で、結構な次第であるが、又一面、とんかつの過大価値を強ゐられるやうな気がしないでもない」という書き出しである」(『とんかつの誕生』)
いつの時代もそんなものよね、とも思うが、これはそのまま、それぞれの肉の価格の相対的な関係を示している。つまり明治中頃では[牛>馬][鶏モツ>犬][鶏モツ>牛モツ][鶏モツ>豚モツ]、昭和初期は[牛>豚][鶏>兎]だったということだ。(高いものを安いものと偽る理由はないので)
こういう関係の認識はなかなか侮れない、ということをこれまた前回の話で書いた。
つまり、私たちはつい今の感覚で[牛>豚>鶏]という目で見てしまいがちだけども、実は終戦後まではそうではなかったという話。

小売価格の推移 単位:円(戦前は100匁、戦後は100gあたり)
1941年の価格は大都市での統制価格であり参考
(『焼肉の文化史』より)
この資料でいえば少なくとも1911(明治44)年以降、終戦後ブロイラーが導入されるまで、鶏が食肉の王者として君臨していたということになる。牛と豚を比べれば、豚がやや安いというところか。1951年には牛と豚が逆転すらしている。
いずれにせよ終戦後まで鶏は最高級だったし、今のように牛が圧倒的に高いという価値観は芽生えていない、というのがこのデータが語っているところだ(牛が他を圧倒し始めるのは1961(昭和36)年以降のこと)。
ところがこの著者はあっさりとこう書く。
「明治後期は、「とんかつの誕生」に向けての最も大切な時期となった。というのも、明治後期以降、都市化の急速な進行のなかで、サラリーマンなどを中心に、日本化された洋風料理が浸透しはじめたからである。そして、それまでの「ビーフカツレツ」や「チキンカツレツ」に対し、大正期にかけ、「ポークカツレツ」の人気が急上昇する。牛肉よりも豚肉の方がはるかに廉価であり、庶民は、より気軽に食べることができ、親しみが湧いたのであろう。さらに、豚肉の普及により、西洋料理よりも遅れて、中国料理も注目され始めた」
「牛肉よりも豚肉の方がはるかに廉価」との根拠はどこにあるのだろう。
いや、私もこの表だけをタテに、事実と違うじゃないかと言い募るつもりはない。しかしもしこういうことを書くならせめて、当時の洋食店のメニューを提示してビーフカツレツ、チキンカツレツ、ポークカツレツの価格差を一目瞭然で示すなり、当時の肉の小売価格を示すなりしてくれれば、あっさり納得させることができるはずだ。
それもなしにこんなこと書かれても、正直、推測で書いているとしか思えない。これは事実の把握という以上に、主張の根拠を示すかどうかという、論者としての姿勢の問題。
あるいは「とんかつ」誕生直後のエピソードとして、こんなことが書かれている。
「一九三二年(昭和七)頃に、東京上野の「楽天」、浅草の「喜田八」が、相次いでとんかつを売りだす。道行く人は見慣れないこの料理の名前に戸惑い、「とんかつとは、何かね? 聞いたことのない料理だな」と首をかしげて素通りする。当初はまったく人気がなかったようだ。楽天では、「鉈切(なたぎ)りの分厚いとんかつ」と、看板に添え書きをしたくらいである。口の悪い客からは、「下等な肉で硬くて、庖丁で切れないから、鉈で切るのだろう」と、皮肉を言われる始末。
ところが、恐る恐る集まった客から、額を突きあわせて食べる雰囲気が、江戸っ子の好みにぴったり合うと評判になる。それからは、人気は高まる一方で客が引きも切らなくなる。このエピソードから、上野の楽天や浅草の喜田八こそ、とんかつの元祖とする説もあるのである」
えええええ? 「額を突きあわせて食べる雰囲気が、江戸っ子の好みにぴったり合うと評判になる」だって? これで納得する人がいるんですかい? ここで評判になるとしたら、「うまい」か「安くてうまい」かしかないじゃないだろうか。食べ方で評判になるんだったらとんかつである必要なんか全くないじゃないか。
せっかく本書が1冊かけて追ってきた「洋食の王様」とんかつが人気を獲得した理由が「額を突きあわせて食べる雰囲気」だとは、いやなんというか、「正気ですか?」と言いたくなる。
この著者にはどうもこういうクセがあるらしい。おそらくは引用文献からそのまま引っ張ってきたのだろう。資料文献の内容に疑問があれば自分で調べてそこを埋めるという姿勢ではなく、未消化のものをそのまんま解決せずに右から左へ持って行っているだけの部分が多いように思える。。
また、とんかつ(や洋食)の話なのにウスターソースの話がたったの1ページ半しか書かれていないことはかなり不満。私自身がソース好きであるということを差し引いたとしても、「洋食」とソースの関係の重要性からしても、この扱いはあまりに不当だと思う。
著者はもともと日清製粉の社員で、小麦粉に関する著書も複数ある。となればソースの重要性は充分認識しているはずで、この扱いはどうにも腑に落ちない。
さらに腑に落ちないのは、そのわずか1ページ半の記述ですらかなりいい加減なことだ。引用となると結構長くなるが……、
「明治三〇年代に、ポークカツレツの人気が高まるのは、ウスターソースの登場に負うところが大きい。ウスターソースをたっぷりかけた洋食の魅力に、庶民は引きつけられたのである。洋食はウスターソースによっていっそう米飯とマッチし、少量のおかずで、多量のご飯が食べられることになった。
このソースのルーツはイギリスであるが、日本製は日本風に改良した独特のソースである。リー、ペリンズという二人の薬屋が、インドで不思議なソースに出会う。その味が忘れられずに試作を操りかえす。一九世紀の中頃に、イギリス南西部のウスターシャー州で、味の再現に成功する。
調合は秘伝とされるが、ソイソース(醤油)・モルトビネガー・糖蜜・ライムジュース・タマリンド・チリーペッパー・クローブ・ガーリック・アンチョビーなど、二十数種類の香辛料を混ぜあわせ熟成させたものである。フランス料理では、このような単純なソースは一切もちいない。このことから、イギリス料理には、ウスターソース一種類しかないという皮肉をいう人もいる。
ところで、明治の中頃までは、カツレツに適したソースはまったく存在しなかった。本格的なフランス料理のソース類は、多くの日本人にとっては奇妙な風味で、米飯の味と合いにくかった。カツレツに、食塩・コショウ・醤油をかけてもおいしくない。醤油が定着していた日本人の食卓に、これに代わる洋風のソースが必要とされた。
一八九八年(明治三一)の全国醤油大会で、イギリスのウスターソースが注目され、一九〇〇年(明治三三)に、日本独特のウスターソースができあがった。しかし、本場のウスターソースとは似ても似つかない、醤油を洋風に作りかえた洋風醤油であった。当時は、新味醤油・洋醤・西洋醤油と呼ばれたらしい。これが明治も後期になると、コロッケ・とんかつ・ライスカレーなどの洋食の普及に伴い、日本式のウスターソースの人気は急上昇し、爆発的に普及していく。第二次世界大戦後には、野菜や果物の不溶性固形物を多くしたとんかつソースが現れる。濃厚で粘度が高く、どろりとしている。味の種類を変えた甘口や辛口もでき、お好み焼きから焼き肉用まで、さまざまな和風ソースも出ている」
前半に出てくるリー&ペリンズ社はウスターソースの元祖企業でありしかも現在も続いている(ただし最近ハインツに買収されてもうイギリスにはない)ことから数多くのところで語られている。私も何度か読むことがあったが、こんな記述に出会ったのは初めてだ。
「リー、ペリンズという二人の薬屋が、インドで不思議なソースに出会う。その味が忘れられずに試作を操りかえす。一九世紀の中頃に、イギリス南西部のウスターシャー州で、味の再現に成功する」だって??
このあたりのくだりは、リー&ペリンズ社のウェブサイトに行けば書いてある。
ただし現在はオリジナルのサイトは削除されハインツのサイトの下に統合されてしまっているのでInternet Archiveへのリンクを貼っておく。
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The story of Lea & Perrins® famous Worcestershire Sauce begins in the early 1800s, in the county of Worcester. Returning home from his travels in Bengal, Lord Sandys, a nobleman of the area, was eager to duplicate a recipe he'd acquired. On Lord Sandys's request, two chemists?John Lea and William Perrins made up the first batch of the sauce. Lea and Perrins were not impressed with their initial results. The pair found the taste unpalatable, and simply left the jars in their cellar to gather dust. A few years later, they stumbled across them and decided to taste the contents again. To their delight, the aging process had turned it into a delicious, savory sauce. |
私も英語が弱いのでアレだが……。
| 1800年代の初め、ウースターでのこと。ベンガル総督のサンディスが、持ち帰ったレシピを再現してほしいとリー、ペリンズという2人の薬屋に依頼する。2人はそれを作ってみるが、最初に作ったものはまったく口に合わず瓶に入れたまま棚に放置した。数年後にそれに気づいて試してみたら、熟成されてすげーうまいソースになってた! |
という感じだろう。私がこれまで見た文献でも話の骨子はだいたい同じだ。もっと詳しく書いているものもある(たいてい「サンデー総督」となっているので、そうなのかも)。
「リー、ペリンズという二人の薬屋が、インドで不思議なソースに出会う。その味が忘れられずに試作を操りかえす。一九世紀の中頃に、イギリス南西部のウスターシャー州で、味の再現に成功する」
とはずいぶん違うじゃないか。
また、
「一八九八年(明治三一)の全国醤油大会で、イギリスのウスターソースが注目され、一九〇〇年(明治三三)に、日本独特のウスターソースができあがった。しかし、本場のウスターソースとは似ても似つかない、醤油を洋風に作りかえた洋風醤油であった。当時は、新味醤油・洋醤・西洋醤油と呼ばれたらしい」
という記述も、全国醤油大会の話は一体何のことかわからないし、1900年にできたウスターソースについても一体どれのことなのかはっきりと書いてほしいものだ。
1884(明治17)~1885(明治18)年に売り出さされたヤマサ醤油による「ミカドソース」には本当に醤油が使われていたが、これはとっくに姿を消していたし著者は1900(明治33)年だと断定しているのでこのソースの話をしているのではない。
1900年当時発売されていた国産ウスターソースは三ツ矢ソース、日ノ出ソース、矢車ソース、白玉ソースくらいだったと思われるが、さて、どれを指して「醤油を洋風に作りかえた洋風醤油」と言っているのか。
この当時のウスターソースについて醤油を材料にしたという話は私の知る範囲では知らないし、あったとしても少なくとも「醤油を洋風に作りかえた洋風醤油であった」と言い切れるような多数派ではなかったはずだ。
この調子で1ページ半というわずかな記述すらほとんど中身のない内容に終始している。
こういってはナンだが、著者はソースにはまったく興味がないのだろうな。
というわけで、史料として役には立つが、私にはさほどよい本のようにも思えないというのが最終的な感想。
話の中に「河金丼」というものが出てくる。
「一九一八年(大正七)に、東京浅草で、屋台洋食を始めた河野金太郎がつくったとされる」というこのメニューは、カレーライスとカツレツを一緒に盛りあわせたもので、カツカレーの元祖といわれている。
本書で書かれているとおり、「とんかつ」が誕生するのは1929(昭和4)年、東京上野御徒町の「ポンチ軒」の島田信二郎が売り出したものという。
つまりカツカレーの誕生はとんかつの誕生より早い。
「河金丼」に載っていたカツとは何なのかというと、とんかつの前身となったポークカツレツだった。
ではポークカツレツととんかつの違いは何か。
「「ポークカツレツ」は、薄い肉に衣をきせて炒め焼きにする。ソースをたっぷりかけて、ナイフとフォークで切りながら食べる。一方「とんかつ」は、分厚い豚肉に、塩・コショウで下味をつけ、コムギ粉・溶き卵・パン粉をきせて、てんぷらのように揚げる。付け合わせに刻み生キャベツを添える。箸で食べやすいように、庖丁で切ってから皿に盛る。好みのウスターソースやトンカツソースをたっぷりかける。味噌汁と米飯がよく調和する。」
という。
となると、両者の大きな違いは豚肉の厚さと加熱の仕方ということになるだろう。
もしこの定義が正しいとすると、現在も残っている河金の「河金丼」に載っているカツは、おそらく「とんかつ」ということになるのだろうな。
1枚ごとに炒め焼きしてると、時間がかかって仕方がないしね。
面白いのはカツカレーは誕生の時は「丼」だったということだ。
恐らくカレーライスにカツを載せたのではなく、カツ丼にカレーをかけたという感覚だったのではなかろうか。
(なお、この本ではカツ丼の誕生は1921(大正10)年説と1913(大正2)年説が紹介されている。前者はグレービーソース、後者はウスターソースだったようだ。いずれも早稲田の学生による発明とされている。もし1918年発売の河金丼が「カツ丼にカレーをかけた」という発想だったとしたら、カツ丼の元祖はそれ以前に登場していた1913年のソースカツ丼だってことになるかもしれないね)
しかしカツ丼についてはこの2つの紹介にとどまっており、私たちが現在見るような、玉子でとじたものの元祖については語っていない。このへんはどうにも弱いなあと思う。
この「とんかつ」物語では、西洋料理⇒洋食の流れというのは、まず政府が導入を進めた西洋料理がどうにも庶民には普及せず、しかしまったく拒否されたわけではなく当初は「高嶺の花」という形で、そしてゆっくりと確実に浸透してゆく。それがだんだん日本社会に受容、同化され、米飯との相性を獲得する(=「洋食」となる)ことで爆発的に普及する。日本の西洋料理の受容はここに完成する……となっている。
つまり西洋料理に関しては当初「本格」が導入され、それがやがて「折衷」のものが圧倒的に普及したということになる。
これもまた私には興味深い話だった。
西洋文化(文明)という異文化の受容は、その分野ごとにさまざまなドラマを生んできた。
自分が少し知っている中では、建築。
西洋建築はまず、「擬洋風」という形で日本に取り入れられた。あるいはコロニアル様式という西洋にはない(「コロニアル」は「植民地風の」という意味)建築が現れ、そして本格西洋建築が現れる。最初に折衷が出てきて、そこから本格が現れる。
あるいはロック音楽。
何度か書いた「日本語ロック論争」が象徴的で、これは結局、ロックを本格として受容するのか折衷として受容するのかという論争だった。最初は本格(英語)が現れたが、そこから折衷(英語混じり日本語)が本流となった。
それぞれ順番もその後の展開も違う。「異文化の受容」といってもそれはさまざまな過程を持つ。一定のパターンはあるかもしれないが「正解」があるわけではない。
このあたりが(恐らく当たり前ではあるけれど)私には興味深く感じられた。
マヨネーズについても面白い記事が載っている。
「『女鑑』(一九〇四~〇五年〔明治三七~三八〕)には、カレーの味噌汁・牛乳入り汁粉・ハムの粕漬・刺身のマヨネーズかけ・マスタードつきのカバ焼き・牛乳入りのマグロぶつ切りが紹介されている。」
先日紹介した『むらさき』(河又株式会社編)には、こんな記述があった。
「30年代に、工業化を主体とする経済成長で太平洋ベルト地帯への人口集中が進み、集合住宅や核家族の増加で、伝統食との断絶がおこった。新聞には「小学生の子供が、御飯にマヨーネーズをかけて食べる」といった苦情が掲載された」
ここでいう「30年代」とは昭和30年代のこと。
いずれにせよマヨラーの歴史は古い。
突然食いたくなったものリスト:
- カレーライス
本日のBGM:
時からの誕生 /黒木香
前回と同様、「積ん読解消運動」と言いながら図書館で借りた本なので積ん読の解消にはならない。
これらの本は、このブログにもたまにコメントやブコメをくれる摂津国人さんのブログで紹介されていたもの(「「焼肉の文化史」「焼肉の誕生」佐々木道雄」)で、読んでみたいと思っていた。
読み始めるとなかなか時間が取れず、かなり時間をかけてしまった。

現在、通説として世に出回っている「焼肉史」について、その根本から見直し、資料的根拠を洗い直して真実の焼肉史を再構築すようという挑戦的な試み。
ここでいう「通説」、すなわち現在広く出回っている「焼肉史」とはどういうものか。
|
日本では肉食文化が育たず、明治になって牛肉食が紹介されはしたものの、あまり普及しなかった。そのため、肉を直火で焼く料理法は知られていなかったし、牛・豚の内臓は食べずに捨てていた。一方、朝鮮では肉食を禁じなかったために、肉食文化が発達し、庶民も焼肉を食べ、内臓の利用法も熟知していた。朝鮮が植民地化されると、こうした文化伝統を持った朝鮮人が日本に渡ってきた。 日本が敗戦を迎えて食糧難になると、日本に残った朝鮮人たちは、日本人が食べずに捨てていた牛や豚の内臓を調理して売ったが、こうしてホルモン焼きが始まった。朝鮮では内臓を煮込むのが主体で、焼いて食べるのは在日が始めたものだ。これが当たって朝鮮料理店が次々に誕生し、精肉の焼肉も始まって、焼肉が日本社会に普及した。 焼肉こそは在日が作り出した文化である。 |
このような説がこれまで数多くの文献でくり返し語られ、流布されてきた。
しかし、と著者は言う。
「私のように朝鮮半島や日本の食文化について勉強している立場から見ると、疑問を感じざるを得ない部分が数多く見られる。例えば、日本では内臓を食べなかったとか、朝鮮では庶民も焼肉を食べたなどとあるが、これらはあり得ない話である。
あり得ない話を論旨に取り込んで作られた「焼肉史」を、そのまま信じることはできない。やはり自分の頭で、納得できるようにしておかなくてはならない」
そして実際に資料を集めはじめて驚いた。
この通説を支持する資料がほとんど見つからないどころか、反証する資料ばかりが出てくるではないか。
「これまでの「焼肉史」は正さなくてはならない」
そう感じたという。
筆者のこの気持ちは、私も少しわかるつもりだ。
私がこのブログで関西のラヲタさんたちに「関西つけ麺史を作ろう」と呼びかけて協力を仰いでいるのも、やはり「このままこれが『関西つけ麺史』として定着していいのか」という気持ちからだ(リンク先参照のこと)。
仕事としてのレベルは著者には遠く及ばないが、その気持ちの欠片くらいは理解できる。
著者は「通説」を検証し、その多くが根拠のない思い込みに基づくものであることを、多くの文献から導き出す。
興味深かったのは、有名な「ホルモン=放るもん」説がこの「通説」の形成に少なからぬ影響を与えていたということだ。
「ホルモン焼き」「ホルモン料理」などと使われる「ホルモン」という言葉はもともと内分泌腺から出される物質、特に性ホルモンを語源としており、その連想から「ホルモン料理」といえば玉子、納豆、山のイモ、動物の内臓などを使った「強精料理」を意味した。今で言えば「スタミナ料理」が近い。
そして戦前には大阪の「北極星」の宣伝などにより「ホルモン」は牛豚の内臓を指すよう変遷していった。
ここからが興味深い。1970年代、「ホルモン=放るもん」説が忽然と登場する。大阪弁で「捨てるもの」を意味する「放(ほ)るもん」が「ホルモン」の語源である、というあの説だ。おそらく誰もが一度は耳にしたことがある説だろう。
元々日本では牛豚の内臓は食べられておらず捨てられていた。その捨てるもの(ほるもん)を内臓食のうまさを知っていた在日が安く仕入れ戦後の闇市でホルモン焼として売り出した。これが今日の焼肉文化へと続く、つまり焼肉文化は在日が作り、育てたのだ……と言われるようになった。
しかし著者は既にこの本で日本に連綿と続く内臓食の歴史を紐解いている。捨てるものに価格統制が行われるはずはない。
「ホルモン」の語源も明らかになっている。
結局、「ホルモン=放るもん」説は言葉遊びによる珍説にすぎなかった。
ただ、この説は単なる言葉遊びの俗説と切り捨てるにはあまりに影響力があった。
このストーリーが魅力的なため、「ホルモン=放るもん」説を根拠に、だったら日本では内臓は捨てられていたのだ、というのが通説になっていったのだ。
この珍説に合わせるために、歴史の方が変えられてしまった。
いわゆる「神話の現実化」の一例と呼べるかもしれない。
「通説」とこの本で論じた内容の対照表がある。
| 1 | 日本では肉食文化が育たず、明治になって牛肉食が紹介されはしたものの、あまり普及しなかった。 | 日本には太古から連綿と続く肉食文化が存在した。ただ、牛馬などの家畜は、農耕の仲間であったことや仏教の影響で、食べることがタブー視される傾向が強かった。牛肉食は明治以降に公然化し、さまざまに発展した。しかし、肉の供給能力の不足のために、肉食は一部の富裕層と都市住民に限られた。 |
| 2 | そのため、肉を直火で焼く料理法は知られていなかった。 | 魚を直火で焼くように、肉も直火で焼くことが昔から行われてきた。戦前の料理書には、直火式の焼肉料理がたくさん収録されている。 |
| 3 | 牛・豚の内臓は食べずに捨てていた。 | 戦前の内臓は現在よりもはるかに有効利用されており、捨てるものではなかった。しかも戦中には、不足する肉と同様に内臓も販売統制された。 |
| 4 | 一方、朝鮮では肉食を禁じなかったために、肉食文化が発達し、庶民も焼肉を食べ、内臓の利用法も熟知していた。朝鮮が植民地化されると、こうした文化伝統を持った朝鮮人が日本に渡ってきた。 | 李氏朝鮮時代は原則として屠牛禁止の時代であった。牛馬は農耕の大切な手段であり、食用家畜ではなかったが、王宮や一部の特権層では肉や内臓の料理が作られ、肉食文化が発達した。しかし、肉の供給には限りがあることもあり、庶民は肉類とは無縁の生活をしていた。「庶民も焼肉を食べていた」という話はあり得ない。 |
| 5 | 日本が敗戦を迎えて食糧難になると、日本に残った朝鮮人たちは、日本人が食べずに捨てていた牛や豚の内臓を調理して売ったが、こうしてホルモン焼きが始まった。 | 戦前の日本では、内臓は捨てるものでなく、都会にはモツ料理を食べさせる店がたくさんあった。戦後のやみ市ではこれらが復活し、ホルモン焼きブームが起こった。朝鮮系の内臓焼肉はこの流行を追ってブームとなるが、この隆盛によって、朝鮮焼肉がホルモン焼きの元祖と勘違いされるまでになった。 |
| 6 | 朝鮮では内臓を煮込むのが主体で、焼いて食べるのは在日が始めた。 | 朝鮮では内臓焼肉は珍しいものでない。李氏朝鮮時代には宮廷料理であり、植民地時代にはスルチプ(一杯飲み屋)でも供された。現在では韓国に内臓焼肉の専門店がたくさんある。また、日本でも古くから内臓焼肉が作られてきた。 |
| 7 | これが当たって朝鮮料理店が次々に誕生し焼肉も始まって、精肉の焼肉が日本社会に普及した。 | 精肉の“焼肉”も内臓の“焼肉”も起源は朝鮮半島にあり、1940年前頃に日本に伝えられた。戦中に一時断絶するが戦後に復活し、精肉の焼肉は朝鮮料理店で、内臓焼肉は朝鮮系の飯屋や飲み屋によって再開された。そして、その後に、この両者が互いの焼肉を取り入れることで、今日の焼肉店の原型ができた。“焼肉”がブームを迎えると、他の朝鮮料理系の店(冷麺店、飯屋、飲み屋)も焼肉店にくら替えした。 |
| 8 | 焼肉こそは在日が作り出した文化である。 | “焼肉”の元になった精肉の焼肉と内臓焼肉は、いずれも朝鮮半島に起源がある。この焼肉を、在日などが、日本の料理文化に適合させながら発展させた。 |
『焼肉の文化史』はこの対照表で示されることを丁寧に論証した本だと言っていい。
見てわかるように、この本の多くは「通説」の否定のために費やされている。
そしてその後出版された『焼肉の誕生』では、「では、どういう歴史だったのか」ということに重点を置いて語られる。
話は前後するが、これらの本でいう「焼肉」とは何か。
(1)おかずの一品としてではなく、肉を主体に食べる料理である。
(2)複数の人がコンロを囲んで焼き、歓談しながら食べる形式を持つ。
(3)店舗料理として発達した。
(4)朝鮮の焼肉料理に起源がある。
「この4つの特徴をすべて備えたものが焼肉といえる」という。
このような焼肉は、いつ、どこで誕生したのか。
「焼肉は、朝鮮の焼肉料理が「客がみずから焼いて食べる」形式を獲得することによって誕生した。したがって焼肉誕生の歴史とは、「客がみずから焼いて食べる」形式をいかにして獲得していったかをあきらかにすることにある。」
場所は大阪・猪飼野。
ここに朝鮮半島から伝わったカルビ焼きとプルコギが「朝鮮食堂に取り込まれ、焼肉食堂に生まれ変わる。そしてプルコギとカルビ焼きは、流行中のジンギスカンの影響を受けて、「客が自ら焼いて食べる」形式を獲得する。これがすなわち焼肉の誕生であった」。1930年代中頃のことだという。
「焼肉の誕生地は大阪・猪飼野であったが、この誕生に直接携わったのは朝鮮人たちであり、満州や朝鮮に広めたのも朝鮮人たちであった。つまり焼肉は、日本の大陸侵略時代に朝鮮南部から大阪・猪飼野に移住した人々が生み出し、広めたものであった。したがって「焼肉は日本で誕生した」というのは少し的外れであって、それよりは「日本の大陸侵略時代に大阪・猪飼野に移り住んだ朝鮮人が作り出した」とするほうが、より実態に近いように思われる」
そして戦後、精肉も内臓も扱う店舗が現れ、今日私たちが知っている、「ロースとカルビと、テッチャンとハツ」といった注文ができる焼肉屋となっていく。
この2冊は内容的にも重複しているところも多く、続けて読んだので『焼肉の誕生』はかなり早く読むことができた。
かなりの労作で、貴重な史料が多く掲載されている。
「ホルモン=放るもん」説の影響は大きく、2冊とも、日本での内臓食の歴史にかなり多くの紙幅を割いている。つまり「戦後まで日本では内臓は捨てられていた」との説を否定することにかなりの努力が割かれたということ。
単なる言葉遊びから始まった俗説が、やがて通説を作り世界観まで固定してしまっていたわけで、笑えるようで笑えない、何とも考えさせられる事実だ。
著者は『焼肉の文化史』の中でこう言う。
「食べ物の話では、事実確認をせずにしたり顔をして発言する人が特に多いような気がする。食べ物はすべての人が日常的に接し、したがってだれでもが一家言を持ち発言できる。それは正しいのだが、知識人がその権威をもとに未消化な知識をひけらかすことはやめてもらいたい。知識人が話すと、本来は不確かな説であるものが、真実と信じて引用されたりすることが多くなる。そしてそれが繰り返されると、有力な説として定着してしまったりすることもある。
知識人は肝に銘じて、このようなことに関与しないようにしてほしいものだ」
自分が知識人かどうかは別として、なかなか耳の痛い言葉だ。
ついついやってしまうんだよね。こういうこと。
しかしそれでもやはりこの言葉はここに掲載し、戒めとしたい。
少し気になるところも。
明治維新以前から日本では肉食(あるいは内臓食)が行われていたということと、それがメジャーであったかどうかというはずいぶん違う話で、しかも日本人の肉食(あるいは内臓食)への禁忌感について、もう少し突っ込んだ考察があってもいいのだろうと思う。同時期に読んだ『とんかつの誕生』(岡田哲)には明治期の肉食への庶民の歓迎と忌避が多く描かれている。肉食そのもののがどう受容され、その中で内臓はどうして置き去りにされたのかは興味を惹くところ。著者の言う、内臓に関わった人たちが被差別民だったからというような理由だけで説明がつくとは思えないのだ。
検証はほとんどが文献によるもので、料理書の記述も多く引用されている。
しかし料理書に載っているにもかかわらずほとんど家庭では作られない料理はたくさんあって、特に西洋料理の料理書ではそういうものが多かったという話もある。
このあたりは料理書に載っているというだけでは少し弱く、料理書と実際の家庭料理との関わりについても考察があってよかったのではないかと思う。
挙げられる資料の中には戦前の家庭では内臓は捨てていたと考えられる記述もあり、これについてはちゃんとした言及が必要ではないかとも思った。
この本で知ってへぇええと思ったのは、戦前からの肉の価格推移についての資料。

小売価格の推移 単位:円(戦前は100匁、戦後は100gあたり)
1941年の価格は大都市での統制価格であり参考
ずっと鶏肉が1番高いのだ。
戦後、アメリカからブロイラーが導入されるまで、日本では鶏こそが最高級の肉だったわけだ。
このあたり、言われればなるほどなのだけど、虚を突かれた感じがした。私たちはやはり、自分の知識の範囲内の尺度でしかものを見ていないというのがよくわかる事実だ。
牛と豚の比較では、ずっと牛>豚という関係が続くものの1951年には一度逆転している。ただし1960年にはまた同じになっており、ここから牛の価格が他を圧倒していく。

現在、いろんな地方で豚など鶏ではない串焼きのことを「焼鳥」と呼ぶ。
この現象の理由を私は知らなかったのだけども、この本でその疑問が解けた(これはこの本で初めて解明されたわけではなく、単純に私が知らなかっただけ)。
屋台では、料理屋などから出る鳥のおとし(不要な部分)を貰い受けて「焼き鳥」が作られていたが、それがやがて豚や牛の内臓、犬の肉までが使われるようになる。
上述のとおり鶏は高級であったため、「焼き鳥」もまた高級なイメージがあったようだ。そして鳥のモツだけではなく牛豚(内臓)を串焼きにしたものも含め「焼き鳥」と呼ばれるようになった。
「焼き鳥には鶏のモツが使われたが、1897年の読売新聞によると、「浅草あたりでは犬の肉を利用して鳥と称する」焼き鳥が、車夫や馬方などの下層の人々を相手に売られたとある(弘文堂『大衆文化事典』1991年)。焼き鳥の素材は、さらに変化し、牛豚のモツが使われるようになる。そうなると、この料理の愛好者は都市の庶民層にまで広がり、酒のおいしいつまみとして定着する」
のだと。
現在でも鶏以外の串焼きを「焼き鳥」と称する地方があるのは、こういう事情から発生しているのだろう。
なお、「関東地方では今日、ヤキトンの名が盛んに使われている」という。
また、本の中に直接の言及はないが、戦後くらいまでは日本でも犬肉が食べられていたことも伺うこともできる。
突然食いたくなったものリスト:
- レインボーラムネ
本日のBGM:
在広東少年 /YELLOW MAGIC ORCHESTRA
ふと気づいたんだけども。
堺の宿院に、「ちくま」という古いそば屋さんがある。
創業元禄8年だとか。
珍しく熱盛りで出す店で、結構ゆるめのゆで加減、生卵1個入れる(うずら玉子ではなく)スタイルはかなり独特で、賛否、好き嫌いが分かれるところではあると思う。
いやまあそれはそれとして。
この店はもちろん食べログにも載っている。
ここでどうにも気になるのがこの屋号の表記。
食べログでは「ちくま」ではなく「ちく満」と書かれている。

ちく満(ちくま)
ググってみても食べログ以外でも「ちく満」表記しているサイトは多い。
「ちく満」すか。「ちくま」じゃなく。うーん。
そんな中途半端(ひらがな+漢字)な屋号つけるもんかいなぁ。まあ珍しくはないんだけどさ。
でもなぁ、と考えてみたら......。
はははは、こういうことか。

看板
いや、これは結構邪悪な想像に過ぎないんだけどもね。
ほんとに「ちく満」かもしれないんだけどもね。
探してみたがこの店の公式サイトはないようなので、店の「公式発表」もよくわからないんだけど。
でも、これ、
変体仮名を漢字だと間違えてるだけじゃないのかなあ。(^^;
この看板の文字はみんな変体仮名で、今使われている平仮名は1つもないんだけど、「ち」と「く」は今の平仮名に似てるから普通に平仮名だと思って、「ま」だけは今のとずいぶん違う(母字が違う)から漢字だと勘違いしたのではないかと。(⇒参考)

ちくま
だからこの看板の文字は、もし今の活字で表記するならやっぱり「ちくま」でいいはずなんだ。
無理矢理漢字を使いたければ「知久満」だけど、こうなるときっと店の意図とはずいぶん違う表記になるんじゃないかな。万葉仮名になっちゃう。
ま、店が「ちく満」だって言えばそれまでなんだけどね。
突然食いたくなったものリスト:
- イシイのミートボールをそのまんまご飯に乗っけてマヨネーズかけて食う
本日のBGM:
Midnight Mover /ACCEPT
以前自分が書いたことなんだけども完全に忘れていて、読み返してみると「へぇ」と思ったので再掲してみる。
NHKの「私の本棚」で今やってる桐谷エリザベス『日本人も知らなかったニッポン』にあった話。
日本人と結婚して日本に住んでいるアメリカ女性の著者が、日本人の食文化の「自由さ」について語っている。
彼女はアメリカ人なので、アメリカ流の「自由」を持っていると認識していたし、「自由とはアメリカにしかないものだ」とさえ思っていたという。ところが日本に来てこの信念は大きく崩れ去った。
日本人の食文化の「自由」さを見るにつけ、何と自分は固定観念に縛られていたことだろう、と思うのだそうだ。
例えば彼女は北海道だったかで、パンに生クリームとフルーツが挟んであるサンドイッチを見て驚愕する。主食たるパンとデザートたるフルーツが一緒になってるとは何事か!? 今でも頭を離れないくらいの衝撃だった。
他にも日本人が朝食にサラダやサンドイッチを平気で食べるのも、異様に感じる。
アメリカではこれらは昼食、夜食に食べるもので、朝食に出てくることはまず考えられないのだそうだ。
知らず知らずのうちに食に対する固いルールを作って、しかしそのルールの存在に気づきもしないで自分を(そういう固定観念から)自由だと思っていた、それに比べて日本人は何と自由な発想を持っているのだろうと彼女は言う。
まあこのへんは、日本人だって米にミルクをかけるアメリカ人を見てびっくりしてしまうわけだから、どっこいどっこいだと思うけどね。
他にも、戦時中に捕虜になったアメリカ人に(善意で)ゴボウを出してあげたにもかかわらず、アメリカ人に拷問だと勘違いされたという有名な話などを出して、日本人はおよそアメリカ人が食用だとは思わないものでも自由に食卓に乗せる、とも言う(このへんも、そんなこといえば中国はどうなるってことになるわけだ)。
食材に対して自由で、そして洋食を初め、外来の食文化をどん欲に、そして様々に組み合わせて吸収する日本人は、何と自由なのだろう......。
で。
最後に彼女はこう結ぶ。
「おおよそ食に対し自由で、ルールがないと思われる日本の中でも、たったひとつだけ、これだけは絶対にやらない、ということがあります。それは......」
さて問題。
この、「日本人が絶対にやらない」ことは、一体、何でしょう?
答えは明日にでもコメント欄に。
適当に予想して書いてみてくれると嬉しいなあ。
突然食いたくなったものリスト:
- イタリアーノ・バニラ
本日のBGM:
ケヤキの神 /IKECHAN

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