先日はあまりいいことを書かなかった(「ラーメンの秘密」)『ラーメンの秘密』だが、が、実は参考になる部分も多かった。
特に「ご当地ラーメンの秘密」という章の、それぞれのご当地ラーメンのルーツに関する記述はよくまとまっていて楽しかった。
#いや別にこれは「秘密」じゃないだろうけどね。(^O^) なんか「秘密」という言葉をこういう使い方すると学習図書みたいだ。
そのあたりをいくつか御紹介。
1991年当時、ご当地ラーメンといえば東京ラーメン、札幌ラーメン、九州ラーメンであり、そこに新たに登場した当地ラーメンが喜多方ラーメンだというところにリアルな時代性を感じさせるね。
ちなみにこの頃、大阪のラーメン界は暗黒時代。(^O^)
| 東京ラーメンのルーツは横浜南京町 東京で最初にできた「ラーメン屋」は、明治43年、浅草に開店した「来々軒」であったといわれます(「にっぽんラーメン物語」小菅桂子・駸々堂)。 当時、まだ「ラーメン屋」という呼称はなく、「シナ料理屋」と称して、ラーメンを中心にワンタン、シュウマイなどを出す店としてスタートしたものでした。経営者は日本人でしたが、コックはすべて横浜の南京町からやって来た中国人。物見高い浅草っ子がこれに飛びつき、当時きっての大歓楽街浅草のこと、またたく間に東京中に知れわたることとなったのです。 ところで、この「来々軒」のラーメンは、日本人の手になるものではなく、横浜南京町の中国人が調理していたことに注目しなくてはなりません。すなわち東京ラーメンのルーツは横浜南京町にありということなのです。 横浜には黒船の来港とともに広東系の清国人が江戸末期から居留し始め、明治以降も広東省出身者を中心にいわゆる「南京町」を形成するようになりました。 その南京町で当初は中国人相手にできた中国料理屋に日本人も出入りするようになり、日清・日露戦争を経て大陸への関心が高かった明治末期の世相とも相まって、南京料理は少しずつ日本人に受け入れられていく状況にあったのです。 しかし、当時南京町で食べられていたラーメンは、豚骨スープに塩味という、日本人にとっては獣臭くてやや受け入れ難いものでした。そこで豚骨にトリガラや野菜を加えてスープをとり、塩味ではなくしょうゆ味にするなど、獣臭さを除く工夫を加えてあっさりした味に変えた和風ラーメンが日本人向けに作られるようになっていったのです。 浅草「来々軒}が繁盛したのはまさにこの日本人向けラーメンを出したことによるものでしょう。こうしてラーメン(かつてはシナソバ・中華ソバと呼ばれることが多かった)は、独特のチャルメラの音色とともに出没する屋台の出現などによって、庶民の食物として大正から昭和にかけて定着して行ったのでした。 |
つまりそれ以前にもラーメンのルーツになるものはあった(豚骨スープに塩味)が、それを改良し醤油ラーメンを開発、それ用の店舗を構えたのが「来々軒」であると。
ただ、いつも気になるんだけども、「来々軒」にしろ、「元祖」と言われる店が最初からかん水を使用した麺を使っていたかというのがあまりよくわからないんだ。
言わずもがなのことだからなのかもしれないが、これについて明示した記述を見たことがない。日本人ではなく「横浜南京町の中国人」が調理していたのであれば、なおさらかん水を使用する動機があるとは思えないんだ。
いやそんなことはないのかもしれないけどね。ただ、そのへんの事情がどこにも書かれていないのが困る。
出典となっている『にっぽんラーメン物語』(小菅桂子著)を読むと書いてるかもしれない。この本はWikipedia「来々軒」も出典として挙げているし、一度読んでみないといけないなあ。......と思ったら在庫なしか。(^^;; 中古を探そう。
しかしやはり地元、札幌ラーメンへの記述が一番熱がこもってるかな。愛情を感じる。
| 札幌ラーメン 札幌ラーメンといえば、昭和40年代に全国的にブームを巻き起し、ご当地ラーメンのはしりとなったことはまだ記憶に新しいところです。 ラードたっぷりの濃厚スープ、みそ味、太くて歯ごたえのあるメン、もやしや玉ネギの具など、それまであっさりした東京ラーメンしか知らなかった人々に衝撃を与えたのも無理からぬことでした。 ...... 元祖札幌ラーメンは? 「さっぽろラーメンの本」(北海道新聞社刊)には、札幌ラーメン誕生のいきさつが詳細に語られています。それによると、現在の札幌ラーメンは戦後になってからできてきたもので、戦前のラーメンとはまったく異なるというのです。 札幌で初めてラーメンを出す店ができたのは大正11年のこと、北大の中国人留学生相手の「竹家食堂」という店だったということです。コックはやはり中国人で、日本のシベリア出兵による戦乱を逃れて、シベリアから樺太経由で札幌に来た、王文彩という本格的な北京料理の調理人だったということです。 めんはカンスイのかわりに炭酸ソーダを使用したもので、当初は手で引き延ばしながら1本を2本、2本を4本という具合に細いめんに仕上げていったので、これを指して「拉麺(ラーメン)」と名付けたとされています。 「拉麺」は次第に札幌っ子に評判となり、昭和5年頃には屋台が出現したり、喫茶店でラーメンを出すところがあったり、普通の食堂やデパートの食堂でも出されるなど、庶民の食物として定着して行ったのです。 当時のラーメンはトリガラなどがスープのベースで、しょう油で薄く色づけした澄んだものが一般的であったということです。また東京などではシナソバ・中華そばと呼ばれていたのに対して、札幌ではすでにラーメンという呼称が一般的だったということです。 ...... 戦後の食糧難が札幌ラーメンを産んだ 戦後の食糧難の時代、札幌市の創成川沿いの一角には大陸からの引揚者などによる屋台が軒を並べており、そこから戦後の札幌ラーメンがスタートしました。 一番最初にラーメンを始めた人は、中国、天津からの引揚者だったそうで、中国での記憶や戦前のラーメンの記憶をもとに、ラーメンづくりを始めましたが、そのスープは豚骨を長時間かけて煮出した白濁したもので、その後の札幌ラーメンの原型となった、濃厚で脂っぽいものだったのです。 平常時であればなかなか受け入れ難いものであったかもしれませんが、寒い北海道のこと、いかにも栄養がつきそうなこのラーメンは人々の支持を得て行ったのです。 こうして屋台を中心に戦後の札幌ラーメンが始まり、ラーメン屋の数も増えていきました。ラーメンそのものも次第に工夫され、後にみそラーメンを産み出す大宮守人さん(味の三平)は、フライパンで玉ネギやモヤシを炒めて具にすることをこの頃から始めており、香辛料としてニンニクを加えることなど、戦前のスタンダードとも言える東京ラーメンとは異なった、札幌という気候風土にかなった独自のラーメンが発展して行ったのです。 昭和26、7年になると町の一角にはラーメン屋ばかりがずらりとならんだ「ラーメン横丁」が出現し、札幌はラーメンの町とかし、人々は安くて旨いラーメンを食べることが日常の一部となってきたのです。昭和30年頃になると、一般の大衆食堂でもラーメンを出すところが多くなり、ラーメンはなくてはならないメニューの1つとなりました。 みそラーメンの産みの親 現在の札幌ラーメンは、みそ味・しょうゆ味・塩味の3つが基本になっています。 このうち特にみそ味は札幌ラーメンに独特のもので、札幌ラーメンの名を高からしめたのもこのみそラーメンに負うところ大です。 みそラーメンの産みの親は前述の大宮守人さん。昭和30年代中頃のことです。それまでのしょうゆ味一辺倒に疑問をもち、何か新しい工夫をという、ラーメンに対する一途な情熱が、誰も思いつかなかったみそとラーメンの画期的な出会いを導いたのです。 当時はいわば札幌ラーメンの発展期ともいうべき時代で、熱心なラーメン屋さんが日々ラーメンの研究に余念がなかったのです。 みそラーメンはその後まず札幌で市民権を得たのち、昭和40年代に入って全国に紹介されるようになると、全国的に札幌ラーメンブームを巻き起し、黄金期を迎えるに至ったのです。 なぜみそラーメンが札幌で産まれたのか? これには必然的な理由があるように思われます。東京ラーメンが南京ラーメンを次第に純化・精錬して完成されてきた背景に江戸文化があるとするならば、北海道といういわば文化的伝統のない、言いかえると拘束のない自由さがみそラーメンというアイディアを産み、また札幌っ子もそれを容易に受け入れたのではないでしょうか。 みそラーメンはまさに土地の気風の産物といわねばならないでしょう。 ...... 以上のように、戦後の混乱期、屋台ラーメンから生じた札幌ラーメンは、北海道という日本にあっては特異な風土の中で、多くの人々の熱い情熱によって独自の地位を築き、日本のラーメン界に大きな影響を与えてきました。 しかし、近年、札幌ラーメンにもかげりが生じてきたという声も耳にします。その原因として、「味が落ちた」、「サービスが良くない」、「値段が高い」ことなどが挙げられています。札幌ラーメンというブランドにあぐらをかいた商法が横行しているというわけです。御多分に漏れず化学調味料も横行しています。 ご当地ラーメンの老舗、札幌ラーメンの名にかけて、日本のラーメンのためにも奮起してもらいたいものです。 |
まだまだ札幌ラーメンがラーメンの代名詞だった時代ね。
#地元だからこそ最後にひとこと言いたくなるのかな。(^^;;;;;
「どさんこ」やそれと類似の名前のチェーン店がどれだけ広がったか(今でも残っているか)を考えれば、全国に札幌ラーメンが与えた衝撃の大きさが今でも窺い知れるというものだ。
こちらでは炭酸ソーダながら麺にアルカリを使ってることが明言されてる。そもそも引き延ばして作る手打ち麺はアルカリがなくても作れるのかな? そのあたりが問題かも......。
で、札幌ラーメンの次の大波が、九州ラーメン。
| 九州ラーメン 九州ラーメンの歴史をたどってみると、老舗といわれる店でもみな戦後に開店しており、多くは食糧難時代の屋台ラーメンに端を発しています。しかも、中国人からラーメンの手ほどきを受けた人や、中国からの引揚者が始めたケースがほとんどです。 この辺の事情は現在の札幌ラーメンの発生時と非常によく似ています。しかし、同じようなルーツを持ちながら、札幌ラーメンと九州ラーメンは独自の道を歩み始め、それぞれ特徴ある姿へと発展して行ったのです。 ...... |
これ以外にもたくさん記述はあったんだけども、メモが少ないということは面白くなかったんだろう。>過去の自分 (^^;
で、新登場の喜多方ラーメン。
| 喜多方ラーメン 札幌・九州と続いたご当地ラーメンブームの第3弾は、思わぬところ、奥の細道・喜多方でした。人口3万7000人ほどの小さな町ですが、ラーメン店の数は110軒にも上るといわれており、ラーメン目当ての観光客や観光バスが押し寄せる盛況ぶりということです。 ブームのきっかけになったのは、マスコミを利用した喜多方市の観光キャンペーン。蔵の町にラーメンというとり合わせが、若い女の子たちに受け、テレビ局の取材も相次ぐうちに、第3のご当地ラーメンの地位を確かなものにしました。 では、なぜこの東北の小都市にラーメン店が軒を並べるようになったのでしょう。 喜多方のルーツも中国でした。 喜多方ラーメンの元祖とされるのは、大正末期に浙江省からやって来た潘欽星さんです。屋台から始まったという源来軒はいまもなお現役の潘さんとともに健在です。 源来軒から始まったラーメンは徐々に喜多方の人々にうけいれられるところとなり、また教えを求める人も現れてラーメンは喜多方に根付いていったのです。 ある地元の人は、「ほかに珍しい食物のないこの地方の人間にとってラーメンはごちそうだった。周辺の人たちは喜多方に出るとラーメンを食べることを楽しみにし、祭りや招待の席でもすしの代りにラーメンを出してきた。ごちそうなんだからおいしくなければいけない。食べる者も作る人もそういう意識でやって来たことが、今の喜多方ラーメンの隆盛をつくったのでしょう」と語っています。 |
このあたりの話はとても役に立ち、示唆に富むものだった。
突然食いたくなったものリスト:
- アメリカンドッグ
本日のBGM:
よどみ萎え、枯れて舞え /SOUTHERN ALL STARS

こんにちは
ご存知かと思いますが麺類の歴史やその周辺についての基本的な研究です。
「日本めん食文化の一三〇〇年」奥村彪生 農山漁村文化協会
「麺の文化史」石毛直道 講談社学術文庫(旧題「文化麺類学ことはじめ」)
他にもこれは少し記述が荒いとは思いますが。
「誰も知らない中国拉麺之路(ラーメンロード)日本ラーメンの源流を探る」坂本一敏 小学館101新書
現代の北京の麺食文化の実像を掴み易い。
「ウー・ウェンの北京小麦粉料理」ウー・ウェン 高橋書店
近代の中国料理の変遷については。
「中国料理の迷宮 」勝見洋一 朝日文庫
石毛直道さんには他にも麺類について書かれた物があり、対談で「シナそば」は戦前の大阪でも屋台でよく売られていたとの田辺聖子さんの証言を読みました。
かん水麺は明治初期の中国福建から上海・蘇州・杭州辺りで流行っていた技法で広東人を含む多くの出稼ぎの料理人にも広まっていたようです。
当時の中国でも外食文化は家庭料理と別の発達をしていて、職業料理人は他の地域の技法を取り込んでいて(かん水麺は北の調理法ですね)、都市圏では現代と同じくその地の家の料理とは異なる(相互に影響は有ります)消費文化が存在していました。
日本では中華料理の流れとは別に明治に製麺機の発明があり、それにかん水使用の麺が適合し、保存も良いかん水麺シナそばはまず東京でテキヤの屋台での商売として広がっていったそうです。
もともと有った屋台蕎麦の影響を受ける形で葱とナルトと海苔、それに出汁を採るために使われた煮豚(チャーシュー)シナチク、モヤシが載るかん水麺の醤油味のシナそばが出来上がり、それが拡散し昭和初期にはすでに今のラーメンの形が広く共有されていたようです。
日本での中国の麺イコールかん水麺と云う刷り込みは導入の経緯が深く関わりを持ちます。
図書館で読んだので本が手元に無く記憶で書いているので間違いが有るかもしれません。
既に書かれていることと重複している部分が有れば失礼しました。
>摂津国人さん
>ご存知かと思いますが
いやいやもう、全然知らないものばかりで。勉強になります。
御紹介の本は是非読んでみたいと思います。
#しかし「日本めん食文化の一三〇〇年」なんて、4000円するんですね。図書館で見つかればいいなあ。(^^;;;
> 日本では中華料理の流れとは別に明治に製麺機の発明があり、それにかん水使用の麺が適合し、保存も良いかん水麺シナそばはまず東京でテキヤの屋台での商売として広がっていったそうです。
なるほど、屋台の時代から、かん水麺は広く使われていたと。確かに保存がいいというのは屋台には好都合ですね。あと、中国のかん水を使っていない方の麺が日本に浸透する前だったのもよかったのかもしれませんね。つまり、「中華麺とはこういうものだろう」というパブリックイメ-ジがつく前に潜り込むことができたと。
貴重な情報をありがとうございます。