最近つぶやいたことから。
- まじかー。「経営者や識者の間では、景気のV字回復はなく、先が見えない状況こそが常態(ニューノーマル)だ、という見方が広がっております。」
- 世の中の人が石田純一の靴下と若槻千夏の動向にどうしてそこまで興味を持ってるのか、不思議で仕方ない。
- 姫は相変わらずお美しいわけだけども、写真にキャプションをつけた編集者のセンスのなさにゲンナリ。
「原田知世、10代のとき『時をかける少女』でデビューしてから27年、今も変わらぬ秘訣明かす!」

マイナスイオンを感じる美ぼうは変わりません!-原田知世 - 先日のこと。日本橋で制服JKとすれ違った。
「あんなかわいい制服はないから、きっと私服だ」
と話してた(きっと聞こえてたと思う)。直後に入ったショップを出て歩きだすと、さっきすれ違ったはずのJKが前を歩いている。あれれさっき彼女は逆方向に向かってたはずだけども......。
また入ったショップを出ると、また前を歩いてる。
なんか怖くなって(^^;脇道にそれた。
偶然かな? それとも客引き? - 家の外で兎を見た。こっちに向かって走ってくる。
最初はネコかと思った。次にタヌキかと思った(色が灰色だったので)。しかしあんなに飛び跳ねるタヌキはいない。
おそらく(^O^)野生ではなくペットが逃げ出したのだと思う。奴は90度進路を変えて、あっちゅーまに逃げていってしまった。
私は生まれて初めて「脱兎」を見たのだった。
確かに速いねえ、奴は。 - 少し前の雨上がりの時、有名な寺の参道でこんなものを収集。
夜中にぼやっと見えたら怖いと思う。(^O^)
人間というのは基本的に「ロールシャッハな奴」なのだ。 - 聖飢魔IIが旧曲に英詞をつけた「悪魔 NATIVITY "SONGS OF THE SWORD"
」を聴いた。メロディラインを日本語詞の時のままにしてるのね。残念だなあ。
- 「ナンバー1になるホストは長男が多い」って、それ、世の中の男の大半が長男だからってだけの話じゃないのかい。
- 落語「宿屋仇」では、旅館で仲居がふとんを敷く時に3人の旅人が
「川の字に敷いたら話ができない。巴(ともえ)に敷け」
と指示する。なんのこっちゃと困る仲居に、
「は? 何年旅籠やってる? 巴も知らないのか」
と説明する。要は、 こういう感じで、話ができるように頭を寄せて敷けということ。
巴
この場面はこのネタの必須?要素で、どの噺家もがやる。確かにこれで少し笑いが起きるが、桂枝雀だけはこれを言わない。代わりに
「三ツ矢に敷け三ツ矢に」
と言う。
他の演者の「巴に敷け」に慣れている客は一瞬「???」となるが、三ツ矢の姿が思い浮かんだ客から、少し遅れて爆笑が起きる。 枝雀は細部に至るまで、本当に笑いに貪欲だった。
三ツ矢 - 自分が愛してるものを愛してくれてる人が他にもいるのは嬉しいものだ。ただしそれが少数派であれば。

olivetti ANK28-106J - 何の反論にもなってない。
みんながやるって言ったんだから『エラー』じゃないってさ。神戸空港:「『失策』ではない」 矢田市長、橋下・大阪府知事に反論 /兵庫
神戸市の矢田立郎市長は10日の定例会見で、神戸空港を「失策」とした橋下徹・大阪府知事の発言に対し、「『失策』は『エラー』の意味だが、議会の議論や国との協議を重ねた結果、新規空港として国に認められた。前後の脈略を考え、整理した上で発言してほしい」と反論。......
議会や国、市がひっくるめて失策をカマしたと言われてるのに。バカだなあ。 - ある音を嫌いになるには、その音を目覚ましアラームの音に設定すればいい。
- ベッキー・クルーエルとこども店長は、メディアから「カネになるうちに使い切ってやるぜ」という気合いが匂い立ってくる。
突然食いたくなったものリスト:
- かるかん
本日のBGM:
Time After Time /DATE OF BIRTH
昔、レンタル落ちの投げ売りコーナーで見つけた。知らない名前だったけどきっとシンディ・ローパーのカバーだろうと(^O^)思って買ったら全然違ってガッカリ。(^O^) でもよく聞いたらとてもいい曲だった。こういう出会いは楽しい。

>>桂枝雀だけはこれを言わない。
「The 枝雀」収録の「宿屋仇」では普通に「巴に敷け」と言ってますね。その代わりと言いますか、「おまえ、こんな商売してて『巴寝』も識らんのか。こう、こう、こうや」と言っていてそこで笑いが起きていますから、身体で巴型を表現しているんだと思います。
ちなみに、「巴」だと寝ている人の形の表現で、「三ツ矢」だと布団の敷き方の表現になりますね。
日々、笑いの方向へ進化を止めなかったということですね。いい話だなあ。
>、「巴」だと寝ている人の形の表現で、「三ツ矢」だと布団の敷き方の表現になりますね。
そうですね。あくまで「巴寝(ともえね)」ですもんね。
ググるとこんなの↓が出ました。(^O^)
なぜにネコばかり。
http://sora-2006.spaces.live.com/Blog/cns!B3FCBE6E352FE94E!5354.entry?wa=wsignin1.0&sa=540433718
http://hview.exblog.jp/10986446/
http://blog.e123.sunnyday.jp/?eid=898448
>>日々、笑いの方向へ進化を止めなかったということですね。いい話だなあ。
稽古の鬼ですからねぇ。「巴寝」でも説明すればわかるんですが、わかる・わからないの問題ではなく、そこを笑いに繋げる余地がまだあるんではないか、実際に口演してみてテンポはどうなるのか、これを何度も実際に稽古してみて手応えが得られてから高座に掛けているんでしょうね。
たしかにいい話ではあるんですが、枝雀の「末期哀れ」を考えると少し哀しく感じる部分もあります。
そう謂えば、ひえたろうさんは以前「宿屋仇」の源兵衛が嫌いだと仰っていましたが、なんで嫌いなのか聞きそびれてしまったように思います。あの場ではオレの推測を語りましたが、実際にはなんで嫌いなんですか?(笑)
>黒猫亭さん
>枝雀
枝雀さんに関しては、私はまだ生きてるような気がして、「末期」がどうにも実感できてないんですよ。今日の夜『枝雀寄席』が放送されても全く違和感を感じません。(^^;
>「宿屋仇」の源兵衛が嫌い……、実際にはなんで嫌いなんですか?(笑)
いやまあ、そのまんまなんですけどね。
話の内容もイヤですが、それを自慢のタネになると考える性根がイヤです。
で、実はあの噺は、源兵衛のあの話が本当にたまたま耳に入って覚えてた話なのか作り話なのか本当に源兵衛が体験した実話なのか、わからないまま終わるんですよね(一応、聞いた話だと本人は釈明しますが)。それがまた源兵衛が手続き上?許せない原因の1つかとも思います。
久しぶりの落語の話題ですので、もうちょっとだけお附き合いください。
>>話の内容もイヤですが、それを自慢のタネになると考える性根がイヤです。
ホントにこの噺の源兵衛・清八・喜六は、頓珍漢な三人組の人物類型を上方噺の代表的な人物名に当てはめて演じているだけで、お馴染みの噺(たとえばこの三人が全員登場する『三枚起請』とか)に出てくる人物とは完全に別人なんだろうな、と謂うふうに思いますので、更めて上方噺の代表的な登場人物名である「甚兵衛・源兵衛・清八・喜六・熊五郎・作次郎」辺りのメタ的な位置附けを意識してしまいますね。
その間の事情については、DVD版「米朝全集」所収の「鯉船」のマクラで米朝が少し触れていますが、落語におけるスターシステムの、名前と人物像と同自性の関係と謂うのはちょっと曖昧で複雑だったりします。
とくにこの噺の三人組は、「三枚起請」に登場する生粋の大阪っ子である三人組とは違って「兵庫神戸はなんぞいや」な地方人ですから、大阪人から視ればガサツな田舎者(オレが聴いた枝雀の口演では「芸者遊びなんか生まれて初めてのことでしょう」とか補足されています)の兵庫人的なエトスも表現しつつこの典型的な三人組の人物配置を流用しているわけですから、変な違和感を感じることは事実です。
余談ですが、オレが落語に登場する典型人物の用い方として面白いと思った噺は「つる」でして、この噺では物知りで善良な結構人と設定されている甚兵衛さんが、近所の若い衆の噂話では「働きもしないでいい暮らしをしている、もしかしたら銀行強盗かもしれない」と謂うふうに陰口を叩かれていますが、上方噺における「甚兵衛はん」と謂う名で代表される人物像は、物知りな横町のご隠居と謂う役回りと同時に、陰で犯罪に手を初めている胡散臭い人物としての起用もありますので、その二つの人物像を重ね合わせた「つる」の扱い方は結構メタ的な面白さがあると思います。
つまり、解釈次第では「つる」の甚兵衛はんも、善良で親切な結構人の仮面の陰で密漁をしたり強盗をしたりしている可能性があるわけで(笑)、若い衆の陰口が根も葉もない誹謗中傷でないと謂う想定も可能になるわけです。この辺のスターシステムの曖昧で重層的な性格が、源兵衛に対するひえたろうさんのご意見とも関係してくるわけですね。
>>で、実はあの噺は、源兵衛のあの話が本当にたまたま耳に入って覚えてた話なのか作り話なのか本当に源兵衛が体験した実話なのか、わからないまま終わるんですよね(一応、聞いた話だと本人は釈明しますが)。
物語構造を原理的に解釈すればその通りです。ですから、そこに含みを持たせて演じる演者が一人もいないとは断言出来ませんが、おそらく大半の演者はこれが源兵衛の作話だと謂う想定で演じていると思います。噺の全体構成から考えて、ここで源兵衛の語る話が実録だったらガストン・ルルー張りのゴシックな犯罪譚になってしまいますし、それだと噺全体の印象がガラッと変わって、オチの切れ味まで鈍ってしまいますから。
また、すでにご存じかもしれませんが、この源兵衛の色懺悔には元ネタがありまして、近松姦通物の代表作である「堀川波鼓」の筋立てをそっくり借用したものだとされていますので、近世の聴客には「ああ、これは有名な浄瑠璃のパクりの作り話なんだな」とピンと来たと思います。
そう謂う意味では、近世的な感覚では「これは作り話なんですよ」と謂う明白な目配せがあるわけで、それ以前に源兵衛が清八・喜六同様に色事に縁のなさそうな醜男であることが散々強調されていますので、大前提としてこの姦通譚は作話だと視てくださいと謂う暗黙裏の合図があるわけです。
勿論、「堀川波鼓」の筋立てをそっくり借用していることが直ちに源兵衛の自慢話が作話であることを示すわけではなく、その浄瑠璃の筋立てを事実と設定して、その当事者こそが源兵衛と万事世話九郎で、ホントの実録はこうだったんですよ、と謂うメタフィクション的な異聞を提示する仕方もあり得ますが、実話だと設定した場合の後味が悪すぎるので、おそらく誰もそう謂う解釈で演じる人はいないのではないかと思います。
>黒猫亭さん
ああなるほど。妙な切り出し方だとも思ったのですが、そういうお話につなげようという意図があったのですね。(^^)
>この源兵衛の色懺悔には元ネタがありまして、近松姦通物の代表作である「堀川波鼓」の筋立てをそっくり借用したものだとされていますので、近世の聴客には「ああ、これは有名な浄瑠璃のパクりの作り話なんだな」とピンと来たと思います。
……大前提としてこの姦通譚は作話だと視てくださいと謂う暗黙裏の合図があるわけです。
ああ、これは知りませんでした。こういうネタ話があるんですね。とすれば、聞く側の中では私が思っているより随分広がりのある話になっているのですね。
>>妙な切り出し方だとも思ったのですが、そういうお話につなげようという意図があったのですね。(^^)
すいません、短く纏めようとしてちょっと展開が強引になりましたね(笑)。と謂うのも、オレは関東落語の「大山詣り」に出てくる熊五郎のキャラが粗暴さに可愛げがなくて嫌いなんですが、これの原話である上方噺の「百人坊主」の聴き起こしを読むと、元々の原話に登場するのは熊五郎ではないみたいなんですね。
舞台も大阪の都市圏ではなくて近郊の農村になっていますから、都市住人である熊五郎の噺ではなかったわけで、何の何某と謂う二つ名を持つ土地のやくざ者が主人公だったりするわけで、「らくだ」の兄貴分と同じような人種だったりするわけです。
これを田舎の噺を嫌う関東の嗜好に基づいて江戸の裏長屋の大山詣りの噺に改変しているので、やくざ者の代わりに同じように喧嘩が強くてちょっと粗暴なところのある典型人物である熊五郎を当てはめたんでしょうけれど、可愛げがないのも道理で、元々は鼻つまみ者で悪知恵の働くやくざの役どころだったわけですね。
こう謂う頭があったものですから、ひえたろうさんが「宿屋仇」の源兵衛が嫌いだと謂うお話を伺って、たとえば「三枚起請」の頼れる兄貴分然とした源兵衛の人物像と「宿屋仇」の粗暴な田舎者と謂う人物像の違いが意識されたと謂う次第です。
元々この噺の舞台は大阪の宿屋街である日本橋ですから、三人組が田舎者でないと噺が成立しないんですが、その根底には「大阪に来て大きな顔をする田舎者がひどい目に遭う噺」と謂う底意があると思うんです。噺の中でもこの三人連れが散々お国自慢を披露して兵庫人であることが強調されていますけれど、大都会である大阪で「兵庫の三人連れ」を自慢する田舎者をからかうと謂う底意はあったと思うんですよ。
で、多分ひえたろうさんが気に入らないと仰った性根も、粋がった田舎者の悪趣味さとしてからかいの対象になっていると思うんですね。幾ら昔の聴客でも、作り話で「人二人まで殺して五十両のカネを奪って逃げた」ことを自慢する感覚は無粋だと感じられたでしょうし、その根底には「ああ、田舎者はこれだから」みたいな蔑みがあったと思うんです。
そう謂う生意気な田舎者が、旅の武家の頓智で生きた心地もしないような恐ろしい目に遭う、と謂う筋立てで「ざまぁみろ」と溜飲が下がると謂う趣向で、考えてみればそもそも厭味な噺ではあるんですね(笑)。ただ、そこに「三人連れ」と謂う共通点だけで大阪の都市住人を代表する人物名である源兵衛・清八・喜六を当てはめちゃったから、何だか変な違和感があるわけで、そもそもこの人物名でわれわれが連想するのは、庶民的な都会っ子なんですね。
そもそもこの噺は、生意気で無粋な田舎者をからかって大阪っ子の聴客の優越感を擽ると謂うちょっと厭味な構造の噺なのに、そのからかわれる立場の田舎者が落語独特のスターシステムによって都会っ子の典型人物である源兵衛・清八・喜六だと謂うことにされている、この辺も何だかこの噺に違和感を感じる部分です。
つまり、ひえたろうさんが感じられた不快感と謂うのは、元々は「生意気な奴が生意気で料簡違いの自慢をしている」と謂う性格のもので、最初からそう謂う不快感を喚起する狙いのものなのだけれど、なまじいわれわれが他の噺で共感を寄せて親しんでいる典型人物の源兵衛であると設定されている為に、殊更に不快に感じられると謂うことはあるんじゃないかと思うんです。
他の噺では割合好感を持って視ている源兵衛と謂う同じ名前を持っている人物が、物語内で「生意気で料簡違いの不快な自慢」として意味附けされている武勇伝を得々と語ること、これが無意識に裏切られたような不快感を醸し出すのではないかと思うんですね。なので、割合これは落語特有のスターシステムの問題なんではないかと思った次第です。
このスターシステムの問題は、たとえば元々は個別の小咄の集大成と視られる大河落語の「東の旅」に登場する清八・喜六の人物像の各エピソードにおける人物像のブレとか、北の旅に当たる「池田の猪買い」の主人公は喜六なのか別人なのかと謂う問題なんかにも視ることは出来るんですが、余談ですからこのくらいで。
>>ああ、これは知りませんでした。こういうネタ話があるんですね。とすれば、聞く側の中では私が思っているより随分広がりのある話になっているのですね。
米朝が古い噺を「昔のままでは通じなくなった」と謂う場合、そう謂うふうに聴客に共有されていた文化的素養の普遍性の問題なんかもありますよね。そう謂う話は石燕の妖怪画の絵解きなんかで京極夏彦もしていますが、当時の受け手の間で共有されていた文化的背景も込みで芸能・芸術のコミュニケーションは成立しているものですよね。
この噺の場合、たとえば明治期くらいまで大阪では浄瑠璃の義太夫節がとても盛んで、有名な演目の筋立ては誰でも識っていたと謂う背景事情があります。「胴乱の幸助」なんかは、そう謂う文化を共有していない変わり者の堅物引き起こす珍騒動が主題で、「お半長」の筋立てを劇中人物も聴客もみんな識っていたと謂うことが前提になるわけですね。
>黒猫亭さん
>つまり、ひえたろうさんが感じられた不快感と謂うのは、元々は「生意気な奴が生意気で料簡違いの自慢をしている」と謂う性格のもので、最初からそう謂う不快感を喚起する狙いのものなのだけれど、なまじいわれわれが他の噺で共感を寄せて親しんでいる典型人物の源兵衛であると設定されている為に、殊更に不快に感じられると謂うことはあるんじゃないかと思うんです。
正直言いますと、実は私は、「落語独特のスターシステム」というのをこれまでほとんど意識したことがないんです。少なくとも別の噺に登場する同じ名前の人物を、同一人物(あるいは個性を被らせている)と意識して聞いたことがないんですね。これは要はそういうシステムに無頓着で、今回黒猫亭さんに指摘されて「ああやっぱりそういう見方をするべきかなあ」なんて思ったくらいで。
なのでまあ、なんといいますか。黒猫亭さん、私を買いかぶりすぎですと。(^O^)
>>>ああ、これは知りませんでした。こういうネタ話があるんですね。とすれば、聞く側の中では私が思っているより随分広がりのある話になっているのですね。
>米朝が古い噺を「昔のままでは通じなくなった」と謂う場合、そう謂うふうに聴客に共有されていた文化的素養の普遍性の問題なんかもありますよね。そう謂う話は石燕の妖怪画の絵解きなんかで京極夏彦もしていますが、当時の受け手の間で共有されていた文化的背景も込みで芸能・芸術のコミュニケーションは成立しているものですよね。
そうですね。そういう、共通の、相手もまず「知っている」ことを前提とした文化というのは、洗練されている分、それを共有していない人間には厳しくて、それはとりもなおさず「田舎者」「無粋」ってことなんですが、なんというか、現代人というのは、あの時代の演者からしてみれば田舎者そのものなのでしょうねえ。