「レッテル貼り」というレッテル貼り
あるブログエントリで、ダメなニセ科学批判批判の類型的なパターンを見かけた。
そこには「レッテル貼り」「いじめ」といった言葉が踊っている。
まずこれらの言葉自体がかなり意図的な「レッテル貼り」で、こういう言葉をためらいもなく持ち出すことを見るだけでも、この論者はあまり信用できる人ではないだろうという判断はできる。
こういう人は「レッテル貼り」「いじめ」のようなかなり色が付いた(ネガティブな印象を与える)言葉を使うことで、論理的に説明しなくちゃいけないいろんなことを放棄しているのだ。
もしもこういう言葉をあえて使いたいなら、「レッテル貼り」がなぜ悪いか、「いじめ」のどういう部分が今の話に共通していて、どの部分を問題にしているのかを明確にしなくちゃいけない。
こういうやり方って、ちょっと何か言ってみたいけどあまり頭を使いたくない人がやることだ。付き合わされる人が気の毒。
まあこれは別に「ニセ科学批判批判」だけに限らず、議論全般に言えることなんだけどね。
天羽優子氏はニセ科学批判に対する
「ニセ科学批判は『ニセ科学』というレッテル貼りである」
という批判?に対して、
「ニセ科学批判は「科学」というレッテルを貼られたニセ科学からの『レッテル剥がし』である」
というきわめて論理的な反論をしている。(⇒「ニセ科学批判はレッテル貼りではなくレッテル剥がし 」
しかし恐らく「レッテル貼り」のような色つき言葉を無反省に使えてしまう議論のスタイルの持ち主に対してはそんな反論は通用しないだろう。
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☆ もちろん、レッテル貼りや図式的思考そのものが悪いのではない。正確なレッテルや的確な図式は、論点をはっきりさせ、事態を正しく説明するのに有用である。化学薬品に貼られたレッテルや数学の図式を思いおこせば、それはわかるはずだ。 だが、レッテルが不正確であったり、図式が成立する前提が疑わしかったら、それは何の役にも立たない。むしろ、レッテルや図式に自縄自縛になり、判断を誤ることになる。 例えば、右翼・左翼という言葉。あいつは右翼だという言い方で相手を批判し得るか。 批判し得ることもある。それは、自分も相手も、左翼は良い右翼は悪いという共通認識を持っている場合だ。 しかし、右翼に向かって、お前は右翼だと百回言おうと千回言おうと、相手を論破したことにも批判したことにもならない。 ── 呉智英『インテリ大戦争』より。
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つまり「レッテルを貼ること」が問題なのではなく、レッテルがその内容をどう反映しているかが問題なのだ。「レッテル貼り」そのものを否定していたんでは、ドリンクバーでジュースを選ぶことすらできなくなるぞ。(^^)
「そのレッテルは不正確ですよ(間違ったレッテル貼りですよ)」という議論はマトモだが、「それはレッテル貼りですよ」という議論は何を言ったことにもならない。
先日は「ニセ科学フラグ」なんて言葉を使ったけれど(ニセ科学フラグ)、ひょっとしたら「レッテル貼り」という言葉は「ダメ論者フラグ」と言えちゃうかもしれない。
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今晩は。
えっと、件のエントリーで「付き合った」人です(笑)
ああいう論理展開をなさる方って、たとえば、「ニセブランド品が出回っているから注意を喚起する」、という活動も、ニセブランド品を作ったり、所有したりしている人がいじめられる、とか、そういう風に考えるのかな、と思ったりしました。
膨大な知識の体系および、現象の構造を解明する方法であり、明確な線引きが出来ない文化である科学と、ブランド品とを、まったく同列に扱う事は出来ないのかも知れませんけれど、「ニセモノを広めないでくれ」、という基本的な部分は、かなり共通しているのですよね。
そもそも、科学を装っている科学で無いもの、という共通する部分があるものを纏める概念として存在しているのが、「ニセ科学」ですよね。批判者は、そういうものが広がるという現象についても、何らかの共通の要因がある、というのも推測している訳で、纏めて考えるべき理由がある、というのもあると思います。
そういう「纏める」とか「分類」するという事への、嫌悪感があるのでしょうね。
不当なレッテル貼り、たとえば、特定の属性を持つ人間をけなしたりするのがいけないのは当たり前ですが、ニセ科学とはそもそも、語の構成からして、そういう例とは違うのですよね。そこの所が、理解されていないのかなあ。
こんばんは。
ニセ科学批判が「レッテル貼り」として嫌がられるのは、“貼る側の人”の多くが所謂科学者である、という事もあるような気がします。
何となく、エラい学者センセイが権威を笠にレッテルを貼ってる、のような風に感じて反発しているのではないでしょうか。
その辺りで、「弱い者に味方する」のような姿勢ともリンクしてくるのではと思っています。
そうなると、レッテル貼ってるのはどっち側?という話になってしまいますが。
>TAKESANさん
こんにちは。
お疲れ様でした。m(_ _)m
>ああいう論理展開をなさる方って、たとえば、「ニセブランド品が出回っているから注意を喚起する」、という活動も、ニセブランド品を作ったり、所有したりしている人がいじめられる、とか、そういう風に考えるのかな、と思ったりしました。
きっと、そういうことまで考えてないと思います。(^O^)
まず漠然とした嫌悪感があって、それに理由をつけていくだけですから、別の局面になればまた別の論理が出てくるんだろうなあと思います。(こういうところに無神経に「いじめ」なんて言葉を使える時点で、そう断定していいと思います)
逆に、頭では思っていなくても、自分の嫌悪感を無理矢理正当化しなくちゃいけない事態に陥れば、平気でそういう論理展開(ニセブランド品を持ってる人がいじめられるの類)ができるでしょうね。
>そういう「纏める」とか「分類」するという事への、嫌悪感があるのでしょうね。
というのはそうかもしれませんね。
嫌悪感というよりは、ひょっとすると、出遅れ感というか、問題意識を共有できてないことへの疎外感であったりするかもしれません。
>ニセ科学とはそもそも、語の構成からして、そういう例とは違うのですよね。そこの所が、理解されていないのかなあ。
おそらく「ニセ科学」と呼ばれているものの実例を全く知らないのでしょうね。
実例を2、3も見れば、少なくとも問題意識がどの辺りにあるかくらいは見えてくるでしょうから。
>摸捫窩さん
こんにちは。
> ニセ科学批判が「レッテル貼り」として嫌がられるのは、“貼る側の人”の多くが所謂科学者である、という事もあるような気がします。
何となく、エラい学者センセイが権威を笠にレッテルを貼ってる、のような風に感じて反発しているのではないでしょうか。
そうであればまだ救い?があるのだろうなと思うんですが、私は「「レッテル貼り」として嫌がられる」という順番ではないような気がしています。まず「嫌がる」がある、と。
「イヤなので批判したい ⇒ 『レッテル貼り』『いじめ』という言葉が便利なので持ち出した」
という感じ。
一見、レッテル貼り「だから」悪いという主張に見えても、きっとこういう人は「レッテル貼りは必ずしも悪いことではない」という説明をされても、別に自説を変えることはないと思います。きっと。
「批判したいから批判する」というだけのことで。
そうでないとそういう色つき言葉(『レッテル貼り』『いじめ』)を自説の中心に据えるような不誠実な真似ができるはずがないと思うんです。こういう言葉を使うというのは、「論証省略。ボクの勝ち~」と言ってるのと同じですから。(^^;
だから『ダメ論者フラグ』なんです。(^^)
> その辺りで、「弱い者に味方する」のような姿勢ともリンクしてくるのではと思っています。
なるほど。もうちょっと社会的な部分での動機ですね。それはあるかも。
でも、味方するつもりならちゃんと味方してあげないとなぁ。(^^;
……あと、きっと「弱い者」っていうのはむしろ「ニセ科学批判」の方ですよね、社会の現状を俯瞰すれば。(^^;;
こんばんは。
なるほど、そうですね。
「批判したい」という事がまずありき、だと考えれば、論理が粗雑だったり、自説を変えなかったりすることもよく理解できます。
それから、「疎外感」というのも結構重要な要素かも知れないと思い始めました。
>「弱い者」
ニセ科学な人が“権力から弾圧される弱者”の振りをするのは『奇妙な論理』の頃からの伝統みたいなものでしょう。
このエントリとは関係ないのですが、科学に関する名言で『鉄鼠の檻』が登場していて何だか嬉しいです。
>摸捫窩さん
こんにちは。
> このエントリとは関係ないのですが、科学に関する名言で『鉄鼠の檻』が登場していて何だか嬉しいです。
最近は追えてないですが、京極夏彦は好きです。
特に最初の4作はたまりませんねえ。(^O^)
個人的には骨>夏=匣>檻でしょうか。
個人的な感想ですが、こと「科学」に関する言葉に限れば、森博嗣よりも京極夏彦の方が多いんですよ。意外にも(?)。なかなか味じゃあありませんか。(^O^)
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